1. 高考の復活(1977年)

文革終了後の1977年7月に共産党副主席、国務院副首相として復活した鄧小平は、「先進国と比較して、科学技術と教育は20年遅れている。米国には120万人、ソ連には90万人の研究者がいるが、我が国には20数万人と少なく、その多くが年老いていたり病気であったりする」と述べ、世界が技術革命の新しい波に直面しているにもかかわらず中国の科学技術人材が深刻に不足しているとの認識を示した。そして同年8月、中国科学院、中国農業科学院、北京大学、清華大学などの学者を招集して人民大会堂で開かれた科学教育研究座談会の終了に際して、中断されていた高考を速やかに復活させることを宣言した。ちなみに、1952年に高考が開始された時の正式名称は「全国統一普通高等学校招生制度」であったが、再開された高考の正式名称は「普通高等学校招生全国統一考試」と若干変化したが、略称は「高考」と変わらなかった。

1977年冬に再開された高考に約570万人が受験したが、文革の影響を受けた大学側の受け入れ体制を考慮して合格者はわずか約28万人であった。さらに特例的に翌1978年の夏にも高考が行われ、やはり約610万人が受験し、合格者は約40万人であった。10年のブランクがあったため受験者の年齢の幅が大きく、16歳から30歳以上の若者が受験したという。大学の入学試験制度の回復により、中国の人材育成は健全な軌道に戻った。

(参考資料)

・百度HP 『恢复高考

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2. 全国科学大会での鄧小平の演説

鄧小平は1977年7月に3回目の復活を遂げた後、自ら進んで科学技術と教育を担当し、全国科学大会の開催を指示した。翌1978年3月18日から3月31日まで、全国から7千3百名の科学技術関係者が参加して北京で全国科学大会が開催された。この大会の開幕に当たり、鄧小平が演説した。その概要は次の通り。

  • 農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である。しかし文化大革命の期間中、四人組を中心とした人々は、「四つの近代化が実現する日は資本主義が復活する時だ」と叫び、我が国の国民経済を崩壊の瀬戸際に立たせた。科学技術の水準を向上させず生産力を発達させないと、外国の侵略に対処し共産主義の理想に向かって前進することができない。
  • 四つの近代化の根本は、科学技術の近代化である。近代的な科学技術がなければ、農業、工業、国防を近代的に建設することができない。科学技術の高度な発展なくしては、国民経済の高度成長はありえない。
  • 現在世界では、科学技術分野で急激な変化が発生し、新たな科学技術が生まれ続けている。例えば高分子合成工業、原子力工業、電子計算機工業、半導体工業、宇宙航空工業、レーザー工業などは、いずれも新興科学の基礎の上に築かれている。また、現代の科学技術の発展は生産力との関係を密接にし、科学技術は生産力として大きな役割を果たしている。特に、コンピューター、制御システム、自動化技術の発展によって、生産性が大幅に向上している。
  • 科学技術の近代化には、多くの革命的で専門的な科学技術者が必要である。文革の期間中に四人組は「知識が多ければ多いほど反動的になる」として、「知識のない労働者」を重要視し、祖国の科学技術事業に貢献した同志を迫害した。四人組が粉砕された後、科学技術者の大多数は革命的な情熱を強く持ち、四つの近代化を実現するために奮起して仕事をしている。このような革命的な知識人は,我が党の頼るべき力である。
  • 科学技術人材の育成は、教育が基礎である。優れた人材を発見し、選抜し、育成しなければならない。我々は四人組の害毒を徹底的に一掃し、世界一流の科学技術専門家を早急に育成し、科学技術や教育を重要な任務とさせなければならない。広範な大衆の基礎の上で、才能が絶えず優れた人材を輩出することができる。大量の優秀な人材があってこそ、中華民族の科学文化レベルの向上に繋がる。
  • 共産党中央は、党委員会の指導下の所長責任制を実行すると規定した。科学技術の業務指導は所長と副所長に分担させ、学術論文の評価、科学技術者の業務水準の審査、研究計画の作成、研究成果の鑑定などをまかせるべきである。党委員会の指導は政治上の指導であり、党の路線、方針、政策の徹底を保証することにある。
  • 科学者の使命は、科学技術の業務と四つの近代化との関係を理解し、科学に対する障害を突破し、科学の高峰に登るよう努力することである。

 会場にいた科学者らは、この演説を聴いて絶大な拍手を送り、文化大革命時の苦難を想起して涙を流し、すすり泣く人までいたという。

(参考資料)
・捜狐新聞HP 「邓小平在全国科学大会开幕式上的讲话」 

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3. 四つの近代化

新中国において、四つの近代化(四个现代化)は大きな国家目標であり、転換点に当たる時期に時の指導者が度々提唱している。

最初は建国直前の1949年9月で、中国人民政治協議会議の第1回総会で、暫定憲法の役割を果たす「共同綱領」が採択された。この共同綱領第43条には、「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」と規定されている。

中華人民共和国建国後の1954年に開催された全国人民代表大会で、周恩来首相は政府活動報告を行い、経済の後進性と貧困を排除し革命を達成させるために、「工業、農業、交通輸送業、国防に関する四つの近代化」を提唱した。また1958年に開催された中国共産党の宣伝工作会議で、「産業、農業と科学・文化の近代化」を提唱した。しかし、これらの提案は、大躍進政策などの政治的経済的な混迷のため実施されることはなかった。

大躍進政策の失敗後に劉少奇や鄧小平が政治的経済的な調整を進め、1964年に開催された全国人民代表大会で周恩来首相は政府活動報告を行い、「農業、産業、国防、科学技術の近代化を完全に実現し、中国の経済を世界の先頭に立たせ、強力な社会主義国を構築する」という四つの近代化路線を再度主張した。しかしこの場合も、1966年から開始された文化大革命の影響を受けて、実施されることはなかった。

文革中の林彪事件後、鄧小平を復活させるなど政治的な基盤を強化した周恩来首相は、1975年の全国人民代表大会で政府活動報告を行い、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と提唱した。しかしこれも、四人組の反撃により実施されることはなかった。

四人組逮捕により文革が終了し、1977年7月に復活した鄧小平副首相は、翌1978年3月に北京で開催された全国科学大会の開幕式に出席し、演説を行った。この演説で、「農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である」、「四つの近代化は科学技術の近代化である。近代的な科学技術がなければ、農業、工業、国防を近代的に建設することができない。科学技術の高度な発展なくしては、国民経済の高度成長はありえない」とし、四つの近代化を国の中心政策とすることを強調した。

その後、華国鋒らのグループと鄧小平や陳雲らとの間で激しい政治路線闘争が行われ、1978年12月の中国共産党第11期三中全会において鄧小平のイニシアティブが確立した。翌1979年1月、鄧小平は中国共産党中央委員会の幹部を招集し、「経済基礎が弱く、人口が多く、耕地が少ない中国が近代化するためには、直ちにかつ一心不乱に四つの近代化に取り組む必要がある」と指摘した。そして中国経済を「小康」にすることが近代化の目標であるとし、「中国のGNPを1980年の2倍にする、20世紀末までにGNPをさらに2倍にし、国民生活をある程度裕福な水準に高める、21世紀半ばまでにGNPをさらに4倍にし、中進国の水準にする」とした。「小康」の目標はその後、1980年11月に開催された第五期人民代表大会第四回会議で確認された。

四つの近代化は、その後1982年12月に制定された新憲法(82憲法:八二宪法)で国家の大目標として条文化された。具体的には、82憲法の序言に以下の通り記述されている。「中国の各民族と人民は、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の指導の下で、人民民主独裁を堅持し、社会主義の道を堅持し、社会主義の諸制度を絶えず充実させ、社会主義民主を発展させ、社会主義法制度を健全化し、自力更生を健全化し、刻苦奮闘し、工業、農業、国防、科学技術を近代化して、我が国を高度に文明的で高度に民主的な社会主義国家として建設する」。

82憲法は、その後数度にわたり修正されているが、この四つの近代化の記述は変更されていない。

(参考資料)
・法律図書館HP 『中华人民政治协商会议共同纲领
・百度HP 『1954年国务院政府工作报告
・百度HP 『1964年国务院政府工作报告
・百度HP 『1975年国务院政府工作报告
・捜狐新聞HP 「邓小平在全国科学大会开幕式上的讲话」 
・中国人代網HP 『中华人民共和国宪法(1982年)

4. 郭沫若の講話(科学の春)

1978年3月31日、中国共産党中央委員会により開催された全国科学大会の終了に際し、病気療養中であった郭沫若中国科学院院長は病を押して出席し、中国に「科学の春(科学的春天)」が来たとする文書を提出して代読させた。

この「科学の春」は、文化大革命の混乱と破壊から回復し、未来に向かって科学技術を推進していくためのスローガンとなり、以降の30年以上にわたる中国科学技術の急速な発展を支えることとなった。郭沫若院長は、その3か月後に86歳で亡くなっている。

この極めて感動的な講話の要約と全文を、林の和訳により以下に記す。

(要約)

  • 我が国の歴史の中で最も明るい科学の春が来ました。現在の素晴らしい出来事に遭遇することができて幸せに感じます。文化大革命中の暗い期間、科学と科学者は破壊と屈辱を受けました。邪悪な四人組は、祖国を古く、無知で、遅れた暗い社会に戻そうとして、科学研究を破壊し、科学者を迫害しました。だが中国共産党中央は、国家と人民に災いをもたらす害虫を一挙に排除し、我々に解放をもたらしました。今、反動派が科学事業を破壊するような情景は二度と帰ってこないと強く言えます。科学の春が来ました。
  • 社会主義のみが科学を解放でき、科学に基づいてのみ社会主義を構築できます。科学には社会主義が必要であり、また社会主義には科学が必要です。中華民族は、人類の文明の歴史に顕著な貢献をしてきました。今日、社会主義の祖国の大革命と建設には、政治的および文化的な巨人が必要なだけでなく、自然科学や他の分野の巨人も必要です。
  • 科学は実際に即しています。科学は少しの偽りもない正確な知識であって、それを習得するには大変な労力が必要です。同時に科学にも創造が必要であり、また伝統の束縛を破ることにより科学を発展させることができます。私たちは、古いしきたりを打ち破り、イバラを切り開き、科学発展の道を切り開かなければなりません。無限の宇宙と悠久な時間の流れの中で、無限の真理を探求しましょう!
  • 古い世代の科学者には、老いても元気を保ち、我が国の科学事業のために新しい功を立て、新しい科学人材を育成するために貢献することを祈ります。中年世代の科学者には、奮起して努力し、世界科学の頂点に達するため死に物狂いで闘うことを願っています。あなたたちは世界の高度なレベルを超えるための主体であり、長い道のりを歩く必要があります。全国の青少年対し、現代の科学技術を確実に習得し、勤勉に勉強することを光栄とし、向上を求めないことを恥ずべきこととすることを願っています。あなたがたは昇る太陽であり,希望はあなたがたに託されています。先輩たちを乗り越えてください。
  • 春分が過ぎ、清明節がもうすぐ来ます。「日の出の光により長江に咲いた紅い花は火に勝って赤く、春の長江の緑の水は青く見える:日出江花紅勝火,春来江水緑如藍(白楽天作の詩「憶江南」の一部)」。これは革命の春、人民の春、科学の春です!両手を広げて、この春を暖かく受け入れましょう!

(全文)

親愛なる同志諸君!中国共産党幹部の重要なスピーチに心からの支持と温かい歓迎の意を表明します。私たちの国の歴史の中で最も明るい科学の春が来ました。私は前世紀に生まれましたが、現在の素晴らしい出来事に遭遇することができて幸せに感じます。

建国以来、これまで多くの人々が、国の繁栄、国家の復活、科学と文化の繁栄を求めて、科学的及び文化的な取り組みに従事しました。しかし、文化大革命中の暗い期間、科学の地位はどこにあり、科学者にとっての道はどこにあったのでしょう! 建国前の時代には、科学と科学者は破壊と屈辱を受けました。封建王朝はそれを破壊し、北洋軍閥はそれを破壊し、反動国民党はそれを破壊しました。五・四運動に参加した私たちは、科学の発展のスローガンを叫びましたが、結果は空しいものに過ぎませんでした。私たちの多くは一生懸命でしたが、ほとんどこのような暗い日を過ごしてきました。偉大な指導者毛沢東は、中国共産党を導いて、困難な闘争により新しい中国を建国し、人々と科学を解放しました。毛沢東主席と周恩来首相は、近代的な社会主義を築く青写真を提示し、科学の大義と科学者に細心の配慮を払いました。中国の科学的取り組みは飛躍的に発展しています。多くの科学文化事業に従事する人々は国家の繁栄、民族の復興、科学文化の繁栄に憧れています。しかし、あの暗い歳月の中で、どこが科学的な地位があって、またどこが科学者の道がありますか?科学と科学者は旧社会で受けたものは、破壊と侮辱にすぎません。封建王朝がそれを破壊し、北洋軍閥がそれを破壊し、反動派国民党がそれを破壊しました。私たちは五・四運動に参加したことがある人たちが科学を発展させるというスローガンを叫んだことがあります。大勢の仁人志士が、胸いっぱいの悲しみと憤りを持ち、あらゆる辛酸を甘受しつつ何かのためにしたいと思ってもできませんでした。本当に英雄が腕を振るう場所がありませんでした。私達の多くの人はこのような暗黒無天の歳月の中で、困窮して流浪して、辛酸を含んで苦悶して大きい半生を過ごしました。偉大な指導者の毛主席は中国共産党を指導して困難を極めた闘争を行い、新中国を創立し、人民は解放され、科学は解放されました。毛主席と周総理は自ら我が国のために社会主義強国を建設する青写真を作成し、科学事業と科学者に行き届いた配慮を与えました。わが国の科学事業はめざましく発展してきました。これらの情景を思い出してみると、一つ一つの昔のことが目の前に浮かんできます。「飲水思源」という言葉通り、私達は偉大な指導者毛主席と敬愛する周総理を深く感謝し、限りなく偲ぶべきです。邪悪な「四人組」は、祖国を古く、無知で、遅れた暗い社会に戻そうとして、科学研究を破壊し、科学者を迫害しました。だが、「アリが羽を揺り動かすのは身の程知らず」を言う言葉があるとおり、華国鋒主席をはじめとする党中央は、国家と人民に災いをもたらす害虫を一挙に排除し、我々に第二次解放をもたらしました。

今、反動派が科学事業を破壊するような情景は二度と帰ってこないと強く言えます。科学の春が来ました!私の一生の経験から、千真万象の真理を悟りました。社会主義のみが科学を解放でき、科学に基づいてのみ社会主義を構築できます。科学には社会主義が必要であり、また社会主義には科学が必要です。今日のような喜ばしい光景を見て、感慨無量で興奮しました。敬愛する葉副主席の「老夫は黄昏を喜び、青山を夕ベの光が照らす」という輝かしい詩は、私たちの気持ちを表しています。
中華民族は、人類の文明の歴史に顕著な貢献をしてきました。共産党の指導の下で、私たちの国は大きな復興を経験しています。エンゲルスは、16世紀のルネサンスについて、巨人が必要とされ巨人が生まれた時代だと言っていました。今日、社会主義の祖国の大革命と建設には、さらに多くの巨人が必要です。政治的および文化的な巨人が必要なだけでなく、自然科学や他の分野の巨人も必要です。私たちは、そのような巨人が多数出現すると信じています。

科学は実際に即しています。科学は少しの偽りもない正確な知識であって、それを習得するには大変な労力が必要です。同時に、科学も創造しなければならなくて、想像(ファンタジー)があってこそ、伝統の束縛を破ることができて、科学を発展することができます。科学者の人たちは、想像を詩人に独占させないでください。中国の昔話である嫦娥の奔月、竜宮の宝探し、封神演義などにある多くの想像は、科学を通じて今日はほとんど現実になりました。偉大な天文学者コペルニクスは、「人間の本分は真理を探求する勇気を持っていることである」と述べました。我が国の人民は勇敢に模索し、勇敢に創造し、勇敢に革命しました。私たちは、古いしきたりを打ち破り、イバラを切り開き、科学発展の道を切り開かなければなりません。奇想天外ではあるが事実に基づく、これが科学者の特有なスタイルです。無限の宇宙と悠久な時間の流れの中で、無限の真理を探求しましょう!

私のような古い世代の科学者が老いてますます盛んになり、党中央に従って新たな長征を行い、我が国の科学事業のために新しい功を立て、新しい科学人材を育成するために貢献することを祈ります。

中年世代の科学者が奮起して努力し、世界科学の頂点に達するため革命的に死に物狂いで闘うことを、私は願っています。あなたたちは世界の高度なレベルを超えるための主体であり、長い道のりを歩く必要があります。古い世代は、「頭上に錐が吊るされ」た状態でこつこつと勉強していました。しかし、あなたたちは共産主義の偉大な理想に導かれ、もっと一心不乱になって、寝食を忘れて、骨身を惜しまずに難関を突破できるでしょう。リタイアするまでには、まだ時間があります。時間は生命で、時間はスピードで、時間は力です。あなたたちが元気なうちに、人民のためにもっと多くの貢献をしてください。

全国の青少年対し、あなたがたが小さいときから志を立てて共産主義事業に献身し、革命の理想を育成するよう努力し、現代の科学技術を確実に習得し、勤勉に勉強することを光栄とし、向上を求めないことを恥ずべきこととすることを、私は願っています。あなたがたは昇る太陽であり,希望はあなたがたに託されています。あなたたちは、革命と科学を鬼に金棒にして、古い世代の革命家と科学者が点火したたいまつを引き継ぎ、「青は藍より出て藍より青し」の格言通り先輩たちを乗り越えてください。

私のこの話は、老科学者の心の声というより、むしろ大きな期待です。私たち全科学者と全国各民族が共に、我が国における科学技術の発展に努力し、偉大な歴史大作として創造を続けていくことを待っています。限られた紙に書くのではなく、無限の宇宙の間に書くのです。

春分が過ぎ、清明節がもうすぐ来ます。「日の出の光により、長江に咲いた紅い花は火に勝って赤く、春の長江の緑の水は青く見える」。これは革命の春、人民の春、科学の春です!両手を広げて、この春を暖かく受け入れましょう!

(参考資料)
・百度HP『科学的春天 (郭沫若演讲辞)

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5. 全国科学技術発展計画要綱(1978年~1985年)

1978年3月全国科学大会が北京で開催され、「全国科学技術発展計画要綱:全国科学技术发展规划纲要(1978年~1985年)(草案)」が採択された。同年10月、中国共産党中央委員会は正式に「全国科学技術発展計画要綱(1978年~1985年)」を公布した。この綱要は1956年に制定された科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)に次ぐ中期的科学技術計画であり、文化大革命中の混乱と中断からの脱却を目指して立案された意欲的な計画であった。

この綱要の具体的な内容は次の通りである。

  • 基本的な前提:科学技術は生産力であり、四つの近代化の鍵は科学技術の近代化にある。我が国の運命と前途は、最先端の科学技術で国民経済と国防を強化できるかどうかにかかっており、今世紀内に四つの近代化を実現し偉大な社会主義強国を建設するため、この長期計画を制定する。
  • 国際的な科学技術の状況:世界における現代の科学技術は、原子力、コンピュータと宇宙技術の発展を主要な標識として、大変革時代となっている。物理学、数学、電子技術、遺伝子工学などの自然科学の基礎理論もこの変革を下支えしている。
  • 中国の科学技術の現状:建国以来28年が経過し、両弾一星の成功など我が国の科学技術事業は大きな成果をあげたが、文化大革命で破壊された。我が国と世界の先進水準との格差が拡大し、四つの近代化の足を引っ張っている。独立自主、自力更生、学習と独創を堅持し、外国の先進科学技術を真剣に学び、我が国独自の科学技術を発展させる必要がある。
  • 本綱要の目標:1985年までに次の目標を達成する。
    • 一部の重要な科学技術分野で、1970年代の世界先進水準に接近・到達させる。
    • 専門家学者数を現在の36万人から80万人にする。
    • 近代的な科学技術研究基地を創設する。
    • 全国の科学技術システムを改革し、新たに構築する。
  • 重点分野:8つの重点発展領域と108の重点研究項目を定める。8つの重点発展領域とは、農業、エネルギー、材料、コンピュータ、レーザー、宇宙、高エネルギー物理、遺伝子工学であり、この8分野のもとで108の重点研究項目を設定する。
  • 高等教育の充実:大学を新設・拡充し、1980年前に新規募集人員を30万人以上にする。大学院生を増加させ、この綱要の8年間で8万人育成する。
  • 研究所の自立:科学研究への政治的な介入を排除するため、科学技術者の職名・職位責任制を確立し、研修・審査などの制度を改革する。
  • 国民の科学技術への積極的関与:科学普及活動を積極的に展開する。青少年の中で科学学習コンテストを開催する。科学協会と専門学会の活動を積極的に展開する。科学技術の成果の普及応用を強力に組織し、加速する。国家科学奨励制度を構築する。
  • 国際協力の強化:海外の先進技術を研究し消化する。外国の優れた専門家を中国に招へいする。国際科学技術協力と技術交流を強化する。
  • 科学技術環境の整備:科学器具の開発と生産を迅速に発展させる。科学研究物資の供給を確実に保証する。科学技術情報システムを構築し、国内の外科学技術情報交流を強化する。科学技術書の刊行物を大量に出版する。

(参考資料)
・科学技術部HP 『1978-1985年全国科学技术发展规划纲要(草案)

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6. 欧米などへの留学の再開

 文化大革命中の1972年2月、ニクソン大統領は、米国大統領として初めて中国を訪問し、両国の科学技術関係の交流を再開していくことに同意した。しかし、四人組が依然として実権を有する状況の下では、この米中の科学技術交流は本格化しなかった。

文革終了後の1978年3月に開催された全国科学大会で鄧小平は、「できるだけ早く世界レベルの科学技術専門家を育成することが重要課題である」とし、「あらゆる民族と国家は、他の民族と国家の長所やその先進科学技術を勉強すべきである。我々は今日の科学技術の低水準から脱却するだけではなく、将来先進国に追いついても学習を続けるべきである」と述べた。さらに、同年6月に開催された清華大学の高等教育報告会において鄧小平は、「できる限り早く国内の科学技術・教育レベルを高めるべきである。留学生派遣を進めることで外国と科学技術レベルを比較することもできるし、我々の大学のレベルも分かる。派遣する留学生の数は十人単位の小さなものではなく、千人・万人単位とすべきだ。今年はまず3千人、来年からは1万人にしたい。費用をいくらかけても、その価値がある」と発言した。この発言は、1960年から20年近く停止していた中国の留学生派遣の再開のきっかけとなった。そして、「今年3千人、来年1万人」という言葉も、教育部の留学生派遣の数値目標となった。このように鄧小平の強い指示により、米国や欧州さらには日本などに優れた学生を留学生として派遣する政策が推進されていった。

この状況について、米国を例にとって以下に記述する。文革後の1978年7月から米中国交正常化をめぐる米中協議が中国で行われ、その結果1979年1月に米中間で国交が正常化した。その米中協議の中で、新中国設立後初めての米国への留学生派遣が決まった。

1978年9月、米国を含めた西側諸国への国費留学生選抜試験が行われ、中国全国から約12,000人が筆記と面接試験に参加し、合格者は3,000人に上った。同年10月、教育部は文革後の初の留学派遣先の候補として、米国などに代表団を派遣し留学生の受入れに関する協議を行った。米国は米中協議の結果を受けて、米中科学技術交流の最初の一歩として50名の留学生の米国受け入れを決定した。

1978年11月、教育部外事局は上記3,000人の試験合格者から、米国への留学生候補として、北京、上海、天津の研究者50名を選定した。さらに、北京大学からの2名の若手数学者という特別推薦者を入れて、合計52名とした。52名の中、4人は上海、4人は天津、その他の44名は北京の研究者であった。また、北京大学から13名、清華大学から9名、中国科学院の各研究所から12名で全体の3分の2を占めている。その他、北京工業大学、天津大学、南開大学、北京原子力研究所、北京協和医院などの研究者であった。平均年齢は41歳、うち女性は6名で、専門分野は理・工・農・医が中心であった。

選抜された52名の留学生は、鄧小平氏の訪米時期に合わせ1978年12月に、パリ経由でワシントンDCに到着した。52名はまずジョージタウン大学とアメリカン大学で半年の英語研修を受けて、それぞれハーバード大学、MIT、カリフォルニア大学バークレー校などで2年間勉学や研究に励んだ。2年後中国に戻った彼らは、全国の重要な研究ポストに就いた。

米国留学組の52名に続き、3,000名の西側諸国への国費留学生候補の中から約1,800名が派遣されている。これらの留学生は、その後の中国の研究開発力の向上に貢献した。

(参考資料)
・捜狐新聞HP 「邓小平在全国科学大会开幕式上的讲话」 2008年
・JST中国総合研究・さくらサイエンスセンター『中国の科学技術の政策変遷と発展経緯(PDF)』2019年

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7. 学位条例

中国においては、清朝期の19世紀後半から各地に高等教育機関が設置され、その後国民党政府の時代の1935年に学位授与法が制定されていたが、ごく一部の修士(碩士)を除いて学士がほとんどで、博士の授与はなかった。新中国建国後に新しい学位授与制度の必要性を主張する人たちもいたが、学位はブルジョア階級のものであるとの考えや、大躍進政策や文化大革命などの政治的な混乱もあり、学位制度は確立されなかった。ただ、清朝期、国民党政権時、新中国建国後の時代を通じて、欧米や日本、ソ連などに留学生を派遣しており、これらの諸国で博士号を取得した人たちもかなりの数に上った。また、国内でも欧米のキリスト教団に由来する大学では博士号を授与した例もあった。

文革終了後、科学技術は第一の生産力とし科学的な人材養成が経済発展の重要な手段だとする鄧小平が、欧米的な学位制度の確立を強く訴えたことから、国務院により「中華人民共和国学位条例」の草案が作成され、1980年2月に全国人民代表大会での承認を受けて1981年1月から施行された。

同条例では、学位を「学士」「修士(碩士)」「博士」とし、大学などの高等教育機関が「学士」「修士(碩士)」「博士」を、研究開発機関が「修士(碩士)」「博士」をそれぞれ授与できるとしている。さらに、学位授与機関となるためには、教育部に付置されている国務院学位委員会の審査と承認が必要としている。

(参考資料)
・教育部HP 『中华人民共和国学位条例

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8. 科学技術発展計画(1986年~2000年)

1978年12月、中国共産党第11期三中全会で華国鋒との路線闘争を決着させた鄧小平は、四つの近代化路線に基づき科学技術の経済社会のより緊密な連携を求めた政策を実施していった。1981年4月、中国共産党中央委員会と国務院は、国家科学技術委員会と関連部門に対し、全国科学技術発展計画綱要(1978年~1985年)の次の中長期計画の策定を命じた。1982年末国務院は、国家計画委員会と国家科学委員会が策定した「科学技術発展計画:科学技术发展规划(1986年~2000年)」を承認した。

この発展計画の主な内容は次の3点である。

  • 科学技術と経済の連携を強調し、「科学技術は経済建設に向かわなければならず、経済建設は科学技術に頼らなければならない」という基本方針の下、科学技術体制の改革をさらに推進する。
  • 農業、鉱工業などの技術政策の重要性を確認し、中国の技術発展方向を明示して、科学技術の成果を広範に生産に応用することを奨励する。
  • この計画の前後に相次いで開始された科学技術振興プロジェクト、具体的には高技術研究開発(863)計画、ハイテク産業化を推進するたいまつ計画、農村向けの星火計画などの実施を保証する。

本計画の公表後、国家科学技術委員会、国家計画委員会、国家経済委員会が共同で、国務院内に「科学技術長期計画弁務室」を設置し、200人以上の専門家と国務院主要幹部が19の専門グループに分かれて議論を行った。また、米国、日本、西ドイツ(当時)、欧州共同体その他の国の著名な科学者、技術者を招聘して意見を聞いた。その結果は、1986年から1990年までを実施期間とする国家科学技術第7次五か年計画に反映された。

(参考資料)
・中央人民政府HP 『共和国7个科技规划回放

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9. 科学技術振興への資金プロジェクト

文化大革命終了後、中国の科学技術は本格的に発展するが、それを支えたのは研究機関や大学などへの国家による科学技術資金の配分であった。1978年から1985年までの間は、中国はソ連の影響を受けて計画経済を維持しており、国の科学技術への資金配分は研究所や大学という単位(組織)に基づいて実施された。

1982年に国家科学技術委員会と国家計画委員会は、農業、食品、エネルギーおよび省エネルギー技術、原材料、機械、電子設備、交通輸送などの8分野38項目のプロジェクトを選択し、「国家科学技術攻関計画」を開始した。この国家科学技術攻関計画は、国家が必要性を認めて実施する研究開発プロジェクトであり、その実施は中国の総合的な科学技術計画が体系化してきたことを示している。

1986年、国務院は「科学技術支出管理の暫行規定」を公表し、科学技術経費の支出方式と体制、科学技術プロジェクトの方向性を示した。これを受けて、「国家自然科学基金委員会(NSFC)」が設立されるとともに、「星火計画」、「国家ハイテク研究発展計画(863計画)」、「たいまつ計画」、「国家重点基礎研究発展計画(973計画)」などが相次いで開始された。これらにより、世界の注目を集める多数の重大な科学研究成果が達成され、多数の高水準のイノベーション的な人材とチームが育成され、経済と社会の発展を制約する多くの技術的な「ボトルネック」が解決され、中国の科学技術イノベーションの全体的な実力が全面的に強化され、中国の改革と発展のプロセスが力強くサポートされた。

(参考資料)
・JST中国総合研究・さくらサイエンスセンター『中国の科学技術の政策変遷と発展経緯(PDF)』2019年

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10. 国家科学技術攻関計画

「国家科学技術難関突破計画:科技攻关计划」は、「全国科学技術発展改革要綱(1978年~1985年)」と「科学技術発展計画(1986年~2000年)」に基づき、国民経済と社会発展の中で重要な課題を解決するために1982年に開始されたプログラムである。農業、ICT、エネルギー、交通、材料、天然資源開発、環境保護、医療衛生領域の基盤技術や技術の課題解決を対象としている。

個々のプロジェクトは、五か年計画の中で位置づけられてきており、最初は1981年から1985年をカバーする「第6次五か年計画」の途中に開始され、その後「第7次五か年計画、「第8次五か年計画」、「第9次五か年計画」にも位置づけられた。

プロジェクトのカテゴリーとして、ⅰ)農業・工業における業界発展のための技術開発、ⅱ)電子、情報、材料、バイオなどの新興技術の開発、ⅲ)軽工業、雑貨、農産物か加工などの既存産業における新製品のための技術開発、ⅳ)環境、医療などの社会技術の開発があった。

国家科学技術難関突破計画は、国民経済発展「第6次五か年計画」から「第9次五か年計画」期間にかけて、534プロジェクトを立ち上げ、総経費は379億元の人民元を投入した。この計画は、産業技術の高度化、産業構造の調整に重要な役割を果たし、新興産業の育成と発展、社会の持続可能な発展を促進する重要な技術と共通技術を集中的に攻略し、一連の重要な成果を収めた。具体的な成果としては、特にハイブリッド水稲開発や、三峡ダム、秦山原子力発電所、大型ビニールプラントなどの建設における重要な技術開発にも活かされ、中国の科学技術力と民族の自信を大いに高め、中国の国際的地位を著しく向上させた。

国家科学技術難関突破計画は、その後、「国家科学技術支援計画:国家科技支撑计划」となって継続している。

(参考資料)
・『国家科技攻关计划

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11. 星火計画

1980年代、中国では農村の改革が行われ、人民公社が続々と解体され農村企業(中国語では「郷鎮企業」)が急増した。その結果、農業技術人材が不足し、如何に農村技術の生産性を向上させるか急務となった。1985年5月、国家科学技術委員会は地方経済を促進する「星火計画:星火计划」実施の指示を国務院に仰ぎ、同年8月国務院は正式に星火計画を承認した。星火計画は、農村の技術向上と農村企業の支援に特化したプログラムであり、農村の活性化に貢献するものである。

星火計画は、次の三つの発展段階に分けられている。

  • 1986年~1990年代初頭:農村企業の成長、農村経済構造の転換に向けて、直面する農業技術の支援
  • 1990年代初頭~2000年代初頭:農村産業の創出と成長、農村経済の成長方式の転換のため、技術型農村企業クラスターの形成に注力
  • 2000年代初頭~:近代的農業と新型農村の建設に向けて、農村技術の産業化、農村起業環境の整備するために、農村情報化と農村科学技術のサービス業に注力

星火計画は、国、省・直轄市・自治区、市・県のレベルで実施が行われている。国レベルでは、科学技術部に星火計画事務室を設置し、星火計画の中長期発展綱要および関連政策・戦略を策定し、募集要項を作成するとともに、毎年の目標を設定し、全国の星火計画を指導・調整する。省・直轄市・自治区は星火計画の中長期発展綱要に基づき、各自のミッション、発展計画および年度計画を策定し、管轄下の星火計画プロジェクトを管理する。各市・県ではそれぞれの年度計画を作成し、星火計画プロジェクトの申請、実施をサポートする。

資金に関して、国は一般プログラム(面上項目)と重点プログラム(重点項目)を拠出する。一般プログラムは基本的に農村技術成果の橋渡しを支援するボトムアップ式のプログラムで、重点プログラムは国レベルの戦略的プログラムである。いずれも申請主体は農村企業となるが、一般プログラムの場合は国が省・直轄市・自治区から申請書を受付する。一方、重点プログラムは、国は省・直轄市・自治区から推薦を受ける形となっている。

農村企業クラスターの形成について、中央政令という形で各省・直轄市・自治区の経済と社会発展計画(地方行政の基本政策)に指定し、各地の財源でクラスターを建設することとなっている。各地のクラスターは国の審査を経て、合格したものは「星火科技示範区」と認定される。

星火計画は中央政府が全体の制度をデザインし、各省・直轄市・自治区により各自の状況に合わせて実施されている。政策の成果に関する国全体の統計が存在しないが、山西省の成果を例として説明したい。1986年~2006年、山西省は星火計画に160億元を投入し、11,683のプロジェクトを支援した。支援された農村企業は665億元の付加価値を創出し、206億元の税金を納めた。この20年間で延べ900万人の農民を対象として技術研修を行った。また、クラスターの建設により、複数の納税規模が1,000万元以上のクラスターが形成され、農民出身の企業家が数多く育成された。

星火計画は農村の技術向上と農村企業の支援に特化したプログラムであり、農村の活性化に大きく貢献している。

(参考資料)
・百度HP 『星火计划 (中国依靠科学技术促进农村经济发展的计划)

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12. 国家ハイテク研究発展計画(863計画)

863計画は略称であり、正式な名称は「国家ハイテク研究発展計画:国家高技术研究发展计划」である。

1980年代に入り、欧米諸国や日本では、新しい科学技術イノベーションによる科学技術と経済の急速な発展を実現させる政策が相次いで発表された。具体的には、1983年に米国のスターウォーズ計画、1985年に欧州のEUREKAプロメテウス計画(The EUREKA Prometheus Project)、1985年に日本の「科学技術政策大綱」などのハイテク政策が、次々と発表された。

これらの欧米および日本のハイテク政策の刺激を受けて、1986年3月に中国科学院学部委員(現在の院士)の王大珩、王淦昌、楊嘉墀、陳芳允の4名が連名で、鄧小平ら中国共産党幹部に対し「海外の戦略的ハイテク技術に対するキャッチアップに関する提言書」を提出した。この提言書は、「海外のハイテク技術競争の波は決して無視することができず、国情に合わせて適切な目標を選び、積極的にキャッチアップ研究を行い、できる限り何らかの面で他をリードする成果を出さなくてはならない。そうして初めて、海外の科学界と対等な交流ができる。これを実現するためには、長年かけて養成してきたハイテク人材をとりわけ大切にし、軽々しく離散させたり、分野変更をさせたりしてはならない」とした。

この提言を受けて鄧小平は、直後の2日後に中国共産党中央委員会および国務院に対して「この提言に関して早急に決断すべき」と指示した。国務院は、関連機関から124名の専門家を集め、12のワーキンググループでハイテク研究発展に関する議論を行い、5か月後の同年8月に「国家ハイテク研究発展綱要」をまとめた。同綱要は、その2か月後の10月に中国共産党中央政治局拡大会議で決定された。

863計画は、政策提案から可決されるまでたった7か月間という迅速な意思決定であり、研究者の提言が共産党トップを動かして策定されたとの特徴を持ち、中国が欧米の科学技術へキャッチアップするためのスタート・ポイントであった。学部委員4名の提案と鄧小平の指示は、いずれも1986年3月に行われたため、863計画と略称される。

21 世紀初頭に世界レベルに追いつくための科学技術基盤整備を行うことを目指し、重点領域として、バイオ技術、宇宙技術、ICT技術、レーザー技術、自動化技術、エネルギー技術、新素材の7つが指定された。1996 年には、海洋技術も対象分野に追加された。

上述の8つの重点領域において、中国と先進国間のギャップが縮まってきた。顕著な成果の一例として、自動化技術領域において技術の橋渡しを担う国家CIMSエンジニアリングセンターを清華大学に設置し、機械、電子、航空などの産業、50以上の工場へ技術移転を行い、製造コストの低下と製造期間の短縮に大きく貢献した。また、深海6000メートル以下にまで潜水が可能な深海ロボットの開発を完成した。ICT技術においては、スーパーコンピュータの製造技術が開発された。音声合成技術をコア技術とするiFLYTEK社も、863計画による研究開発および技術移転で上場企業となっている。さらに863計画では、最先端技術領域のハイレベル技術者を育成に貢献している。例えば、AI領域については、863計画がきっかけで人工知能関連の学科が各大学で設置され、現在に至るAI技術者の大量輩出に至った。

競争的資金配分に関する改革の一環として、2016年に他の制度と統合し、国家重点研究開発計画となっている。

(参考資料)
・科学技術部HP 『国家高技术研究发展计划(863计划
・百度HP『国家高技术研究发展计划(863计划)

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13. 国家重点実験室

改革開放後の中国では、文化大革命により大学や研究機関の施設や装置が破壊されたり、更新されなかったため老朽化したりして、国際的に劣る状況であった。また、大学の入試(高考)が停止され、研究機関も新たな職員の採用が困難であったため、人材養成が大きく後れてしまった。

このため、国家計画委員会(現在の国家発展・改革委員会)は1984年、限られた研究資源や研究人材を特定の実験室に集中させ、世界水準の研究を実施させることを目指し、国家重点実験室(State Key Laboratory)の指定事業を開始した。国家重点実験室は、中国科学院傘下の研究所や有力大学に設置され、非常に大きな成果を挙げている。現在は国務院の科学技術部がその実務を行っている。2015年末で255の国家重点実験室が、中国全土で指定されている。直接的な予算の規模は、2015年度で総額約40億元である。

国家重点実験室にならい、政府各部門や地方政府がそれぞれの重点実験室を指定している。中央政府の部門と地方政府が連携した省・部共同建設実験室も設置された。これらの中には、評価を経て国家重点実験室に格上げされたものもある。

また、国家の重大戦略のニーズに応え、貢献する、より重点的な研究機関として国家実験室も指定されている。最初に国家実験室として指定を受けたものは、1984年に中国科学技術大学に設置された国家シンクロトロン実験室で、2003年までに10か所が指定された。その後科学技術部は2006年に10か所、2012年に1か所を指定したが、国家実験室に求められる水準は高くなったため、これら11か所の中では青島の海洋科学・技術国家実験室を除き、具体的な計画を検討中の段階で国務院の正式認可を待っている状況である。

(参考資料)
・百度HP 『国家重点实验室

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14. 国家ハイテク産業開発区

改革開放政策の一環として、1980年に深圳、珠海、厦門、汕東の4地区が経済特区、1984年に上海、天津、広州、大連などの14の沿岸部諸都市が経済技術開発区に指定され、華僑や先進国の資本を積極的に導入することで、資本確保や国外からの技術移転などを目指した。これらの特区の設置は、商業のみならず工場誘致に広く門戸を広げたものであり、これに伴って工業生産が拡大し、1985年以降、軽工業、消費財部門が中国の工業化を牽引することになった。その結果、それまで国営企業が中心となって進めてきたエネルギー、運輸、素材などの産業部門が低迷し、産業の不均衡が生じた。

このような状況下で1988年に経済の持続的な発展のために採られた政策が、「国家ハイテク産業開発区:国家高新技术产业开发区」の設置であり、ハイテク産業が集積する地区を中国全土に建設しようとするものである。これは、1980年に導入された経済特区制度、1984年に開始した経済技術開発区を、さらに拡張させるものと捉えることができる。

国家ハイテク産業開発区は、すでにハイテク産業化の成果が豊富で、関連企業が集中し、ベンチャーへの意欲が豊富であり、金融支援のあるエリアを指定し、中国のハイテク産業の集中区域を発展させるものである。同開発区では、製品輸出企業やハイテク企業への税などの優遇措置が取られ、先進技術レベルや国内外の市場および経済的効果のあるハイテク製品の開発が実施される。重点分野は新材料、バイオテクノロジー、電子・情報、先進製造、宇宙航空、環境保全、新エネルギー技術、省エネ技術などの分野に及ぶ。

なお中国初のハイテク産業開発区は、国家ハイテク産業開発区開始前の1985年7月に、中国科学院と深圳市により深圳市内に設けられている。

(参考資料)
・百度HP 『中国高新技术产业开发区

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15. たいまつ計画

「たいまつ計画:火炬计划」は1988年8月に、科学技術における研究成果の商品化、産業化、国際化を促すことを目的に国務院科学技術部により開始されたものであり、「国家ハイテク産業開発区」の建設を支援する計画である。

ハイテク産業のために優れた環境と条件を構築し、中国のハイテク産業の発展をサポートすることが目的である。先進技術レベルや国内外の市場および経済的効果のあるハイテク製品の開発を実施し、全国で国家ハイテク産業開発区を設置し、ハイテク産業の発展に適応した管理体制と運営メカニズムを指導する国の計画である。

たいまつ計画では、ハイテク産業開発区の設置、税優遇措置、補助金交付、融資、ハイテク型中小企業起業基金などを通じて、中国のハイテク産業の発展をサポートしている。またたいまつ計画では、インキュベーションセンターの建設、ソフトウェア産業基地の建設、関連研究開発の実施などもあわせて行っている。

(参考資料)
・百度HP『星火计划 (中国依靠科学技术促进农村经济发展的计划)

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16. 中関村ハイテクパーク

1988年に国務院は国家ハイテク産業開発区政策の一環として、北京の有名大学や中国科学院の研究所が密集する海淀区中関村で、ハイテク企業の誘致と育成を図るため「北京新技術産業開発区(中関村ハイテクパーク)暫行条例」を施行した。

中関村は北京市中心部から少し離れた北西部に位置し、元々電子部品街が存在した。また、北京大学、清華大学、北京理工大学、北京師範大学などの有名大学や、中国科学院の中国科学院電子学研究所、中国科学院計算技術研究所、中国科学院半導体研究所、中国科学院ソフトウェア研究所などが集積している。

この中関村を、単なる電気街や大学と研究所の街から中国のシリコンバレーと呼ばれるハイテクパークに変身させたのは、中国科学院物理研究所の一研究者であった陳春先であり、「中関村の父」とも呼ばれている。陳春先は文化大革命終了後の1978年から三度にわたって米国を訪問し、米国のシリコンバレーに触発され、1980年10月に中関村に中国のシリコンバレーを建設すべきであるとして、自ら物理研究所内に「先進技術サービス部」を設立し、技術の実用化支援などの実験的な試みを開始した。1983年、中国共産党中央がこの陳春先の実験を支持したことよって陳春先の実験的な試みは促進され、さらに1988年の国家ハイテク産業区設置政策の一環で前記条例が施行されることにより、中関村の振興は国の正式な政策となった。

2004年に陳春先は亡くなったが、彼の死後も中関村は発展を続けている。中国有数の大学や研究所との協力関係の構築や優秀な人材の獲得のため、IBM、マイクロソフト、インテル、モトローラ、パナソニック、富士通、NTTデータなど、欧米や日本の企業の出先がこの中関村の近隣に置かれている。また、これらの大学、研究所、外資系企業などからスピンオフした研究者が創設した技術系民間企業が集積しており、ネットカフェが並ぶ長さ200メートルほどの「創業通り」が政府の旗振りで生まれ、生まれたばかりの会社のオフィスや、起業したい人向けの手続きサービスを支援する機関や、ベンチャー投資を行う機関の出張所が軒を連ねている。

(参考資料)
・中関村HP  http://zgcgw.beijing.gov.cn/zgc/index/index.html

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17. 科学技術体制改革に関する決定

1985年3月中国共産党中央委員会は、科学技術体制を改革して改革開放政策をよりいっそう進展させるため、「科学技術体制改革に関する決定:关于科学技术体制改革的决定」を公表した。

これまでの中国は、科学技術を重視せず資源・設備などに依存する「粗放式」経済であったため、先進諸国に比較して経済効率が悪い状況にあった。一方、国内の科学技術体制は伝統的で閉鎖的であり、科学者や技術者の知恵と創造が十分に生産活動に反映されず、結果として科学技術の成果の生産への応用はきわめて少なくまた時間が長くかかるため、生産の中で早急に解決すべき技術的課題が長期にわたって存在し続けるという課題が存在していた。このような状況を変えるために、科学技術活動の運営、組織構造、人事制度の改革を行うことにより、科学技術と経済の連携を促進し、科学技術者にその役割を十分に発揮させ、科学技術の成果を迅速に生産に応用し、科学技術と経済社会の調和のある発展を促進することを目指している。

具体的な対応の一つ目は研究機関の運営改革である。これまで科学技術活動を行政的な考えにより管理してきた結果、研究者の自主性が損なわれ、また、経済活動に十分貢献できなかった。これを改め、政府の干渉が多すぎる弊害を排除し、自己発展と経済建設サービスの活力を維持しようとするものである。これに合わせて、研究機関に対する政府の資金拠出制度を改革し、異なる種類の科学技術活動の特徴にしたがって経費の分類管理を行うこととした。

二つ目は、研究機関の整理統合である。中国では、多くの研究機関が自ら企業を有していたり、軍事用と民事用の研究が一体で行われていたり、全く違う種類の研究が同じところで行われていたり、連携すべき機関が地域的に離れていたりして、研究開発が効率的でなかったり、研究成果と生産活動への応用が十分行われてこなかった。そこで、研究機関が有する企業を分離し、また軍民の分割、部門分割、地域分割の状況を変更することにより、研究機関や大学と企業間の協力連携を促進し、企業の技術的吸収と開発能力の強化し、研究と生産の効率化を図ることとした。

三つ目は人事制度の改革である。これまで知識人は反革命的であるとの文革時代の考え方から、研究者に対して多くの制限が残存し、人材が合理的に流動しない、知的労働が尊重されないといった弊害があった。これを改め、必要なところに人材が配置され、研究成果が迅速に生産に応用され、経済と社会の発展を促進するため、研究者の待遇に関する改革を図ることとした。

この決定に基づき、肥大化した多くの公的研究機関が整理統合されたり、民間機関に転換したりした。従来の公的機関は、ⅰ)基礎研究を中心とする機関、ⅱ)技術開発を中心とする機関、ⅲ)社会公益的研究や農業研究を行う機関の3つに分類され、ⅰ)は全体ではなく一定額の補助に留める、ⅱ)は政府からの事業費を縮小し5年以内に政府機関としての活動を停止する、ⅲ)は請負制によって政策ニーズに対応した研究が義務付けるという厳しい方針が打ち出された。その結果、1991年までに公的研究機関の約5分の1の事業が停止した。

また、科学技術と生産の連携については、技術市場の形成の基盤となる「特許法」や「技術契約法」が制定され、一方イノベーション市場促進策としては、ハイテク産業開発試験区の制定や技術交流や技術コンサルティングを業務とする民間科技企業の設立が奨励された。

(参考資料)
・中国経済网HP 『中共中央关于科学技术体制改革的决定

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18. 国家自然科学基金委員会

1981年5月、中国科学院の学部委員(現在の中国科学院院士)89名が連名で国務院に書簡を出し、基礎研究に競争的な資金援助することを目的に、中国科学院に科学基金を設立するよう提案した。この提案は中国共産党中央と国務院の承認を得た後、1982年3月には中国科学院の内部組織として科学基金委員会が設立された。1982年から申請を受け付け、1986年には計4,424の課題に資金援助し、総額は1億7,200万元に達した。このうち中国科学院のプロジェクトは14.6%で、大学などの高等教育機関が74.8%と大半を占め、残りは民間など他の研究機関であった。

このように当初は中国科学院の内部資金配分システムであったが、資金配分を受けた研究者は中国科学院以外が大半であり、中国全体で対応すべきであると考えた中国共産党中央は、前述する1985年3月に発出した「科学技術体制の改革に関する決定」において、「基礎研究および一部の応用研究事業に対し、科学基金制を徐々に試行する」との方針を記載した。この決定を受けて1986年2月に、国務院は中国科学院と同格となる直属事業単位として、国家自然科学基金委員会を設立した。米国の国立科学財団(NSF:National Science Foundation)をモデルとして設立されたこともあり、同委員会は「NSFC:National Natural Science Foundation of China」と略称されている。

NSFCは、国の科学技術発展の方針・政策に基づき基礎研究および一部の応用研究を国の資金で助成する組織である。その予算総額は、2005年は26.95億元(約364億円)から、2018年の295億元(約5千億円)と、急激に増加している。主な業務は次の通りである。

  • 基礎研究と科学技術人材育成の助成計画の策定と実施、プロジェクト申請の受理と審査、助成プロジェクトの管理、適切な科学研究資源配置の促進、イ ノベーションの環境整備
  • 国家発展基礎研究の政策方針と計画の策定、国家の科学技術発展問題のコンサルティング
  • 外国の科学技術管理部門、資金助成機関および学術組織との国際協力
  • 国内における他の科学基金のサポート。

なおNSFCは、2018年の競争的資金改革の一環で科学技術部の傘下の組織として再編された。

(参考資料)
・国家自然科学基金委員会HP  http://www.nsfc.gov.cn/

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19. 科学技術体制の深化にかかわる若干の問題の決定

1988年国務院は、「科学技術体制の深化にかかわる若干の問題の決定:关于科学技术体制改革若干問題决定」を公表した。この決定は、1985年の「科学技術体制改革に関する決定」をさらに推進しようとするもので、研究機関に競争的なメカニズムの導入し、様々な形式の請負経営責任制の推進、研究機関の所有と経営管理の分離などを促すものであった。

この決定がなされた1988年頃は、役人ブローカー(官倒)の腐敗・汚職が社会的に拡大し、市場では市民たちが急激な物価上昇に翻弄されるなど、改革開放に伴う問題や矛盾が顕在化し、計画経済を維持すべきとする陳雲ら保守派が台頭しつつあった。鄧小平ら改革派は、これらの対立する意見を乗り越え、さらに改革開放を進めて科学技術と経済の連携を確立し、経済と社会の発展を推進すべきとする決定を行ったものである。

この決定には、以下の内容が盛り込まれている。

  • 研究機関に競争のメカニズムを導入し、各種の請負経営責任制を積極的に導入し、研究機関の所有と経営管理を分離する。   
  • 行政管理改革の一貫として、各政府部門は傘下の科学研究機関を独立させ、連合させ、競争させる。
  • 研究機関が新しい研究機能を持つ企業に発展し、経済発展に寄与することを奨励する。研究機関は、他の企業との相互請負、賃貸、吸収合併、共同経営などの手段により、研究型企業に発展することを可能とする。
  • 科学技術と経済の長期的な発展を確保するため、基礎研究を持続的かつ安定的に推進する必要があり、国は基礎研究のための資金を拡大する。   
  • 各地域は地域振興政策を制定し、科学技術人材の合理的な流動を促進する。

この決定により、これまできわめて非効率で国が無くならない限り倒産しないと揶揄される「鉄の茶碗(日本語では、いわゆる「親方日の丸」に相当)」的な政府関連の研究機関の意識を変革し、国により配布された予算に依存することから脱し、自らの知恵と能力で研究資金を獲得してくることを目指したのである。

(参考資料)
・百度HP 『国务院关于深化科技体制改革若干问题的决定

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20. 南巡講話

南巡講話(南巡讲话)とは、1992年春に鄧小平が中国南部の都市を視察した際に行った一連の重要な談話である。

1989年の天安門事件後に西側諸国の経済制裁が高まったため、鄧小平が主導する改革開放路線と、「和平演変(西側が平和裏に中国の体制を覆すこと)」を警戒すべきとする保守派の路線対立が深まった。とりわけ保守派長老である陳雲が鳥籠経済論を提起し、鄧小平の改革開放路線を間接的に批判した。

天安門事件後ほとんど引退状態にあった鄧小平であるが、1992年1月から2月にかけて武漢、深圳、珠海、上海などを視察し、相次いで重要な声明を発表した。この南巡講話の後の3月に開催された全国人民代表大会で、李鵬首相は市場経済の必要性を強調して計画経済の復活を否定し、また保守派の陳雲は「過去に有効だった方法はすでに適用できなくなった」と自己批判した。これにより、鄧小平が文革以降一貫して主張してきた改革開放路線が、天安門事件以降も継続して実施されることとなった。

南巡講話で、科学技術イノベーションと教育に関係するものとして次の点がある。

  • 〇革命は生産力を解放することであり、改革は生産力を発展させることである。
  • 〇科学技術は第一の生産力であり、経済発展の速度を速めるには、科学技術と教育に頼らなければならない。

その後、鄧小平は政治の表舞台から完全に引退し、香港返還を見ることなく1997年2月19日に亡くなった。本人は遺体の献体を望んだが、遺族の希望で実施されず、遺灰は親族によって中国の領海に撒かれた。

(参考資料)
・知乎HP『1992 邓小平南巡讲话全文

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